ABOUT

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サクソフォン 方波見 一真 Katabami,Kazuma

茨城県鉾田市出身、長崎県長崎市在住。

常総学院高等学校、東海大学教養学部芸術学科音楽学課程卒業。

卒業時、読売新人演奏会、日本サクソフォン協会新人演奏会に出演。2012年、兵庫県・淡路島地域活性事業に参加、混合オーケストラのメンバーとして活動。

2013年鉾田市教育委員会主催、「動物たちの音楽祭」を企画し鉾田市で開催。

2016年、音の絵サンデーコンサートvol.2 モーツァルト×プーランク を開催(五反田文化センター音楽ホール)

その他、リーガロイヤルホテルフレッシュコンサート(大阪)、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2014エリアコンサート(東京丸の内)等に出演。

現在、国立音楽大学ディプロマコース管楽器ソリストコースに在籍。

サクソフォンを滝上典彦、田中靖人の各氏に師事。   

鉾田市に生まれて

私は昭和63年、1988年の11月に茨城県鉾田市(旧大洋村)で生まれました。3人兄弟の長男で、妹と弟がいます。妹は水泳や卓球、弟は幼少期からラグビーを習っていましたが、私はというスポーツは不得意。 それでも無理やりスポーツをさせようとする両親は、幼少期から私をスイミングスクールやサッカースクールに通わせました。毎週土曜日、嫌々保育園のグラウンドに連れられ、サッカーをするのですが、どうにか逃げる方法はと考えていると、グラウンドからピアノを弾く女の子。「これだ!」と、すぐに母に「ピアノを習いたい」といったのは鮮明に覚えています。  

音楽は女の子がするもの

さて5歳からピアノを習いたいと両親に訴えたものの、いつまで経っても習わせてはくれません。何度も何度も頼むのですが、やっと習い始めたのは小学校に入ってからでした。後から聞いた話だと父が「音楽は女性がするもの」と言って反対したらしく、そこを「すぐに辞めるだろうから」と母が根気強く説得してくれたのでした。 さて、習い始めたものの・・・家にはピアノはありません。最初は幼稚園で使った鍵盤ハーモニカで頑張って練習するものの、同時に音を鳴らすには相当な息が必要です。(今思うとこれが良かったのかもしれませんが・・・・)確か小学2年生ぐらいまではそんな感じで、ピアノが欲しいといっても「すぐ辞めるだろうから」と親戚から3オクターブぐらいの足踏みオルガンをもらってきてそれで練習をしなさいという父・・・。しかも音がでない・・・。どうにかして音楽をやめさせたい父・・・。それでも続ける私に根負けしたのか、小学4年生にしてやっと電子ピアノが家にやってきたのでした。

吹奏楽部に入るまで

 さてそんなこんなでピアノを続けていました。やっと電子ピアノを買ってもらったものの、中々思うようにはいきません。そんな時、小学4年生の時、小学6年生の教室や、学校の様々なところでとっても素敵な水彩画やイラストが飾られているのに気が付きました。私はその作品者名を見ると小学6年生の女性の先輩だったのでしたとても小学生とは思えない色使いや構図にびっくりしたのです。それから、ピアノは二の次になって「あの先輩みたいに絵を描きたい」と思うようになってしまいました。話かけてみたいと思うものの、学年が2つ違うと話しかけづらく。ウダウダしているうちに卒業してしまいました。そして、私も中学に進学。その先輩はきっと美術部にいるだろうと、体験入部で覗いてみると姿が見当たらない。はてさて帰宅部なのか・・・と思って吹奏楽部を覗くと絵がうまい先輩は吹奏楽部ではドラムを叩いたり、マリンバを叩いていたのでした。なんて・・・マルチな人なんだと。やっぱりこの人は凄いなー。仲良くなりたいなーとそれまでまったく入る気がなかった吹奏楽部に入部することにしました。

サクソフォーンとの出会い

「先輩と仲良くなりたい」とはいうものの、同じパーカッションは恥ずかしい・・・。他の楽器にしようと、あまり深く考えず、音がすぐ出たサクソフォーンにしたのでした。が、アルトサクソフォーンを吹きたかったものの、貴重な男子部員・・・。ということでバリトンサクソフォンを吹くことになったのでした。 吹奏楽顧問の先生には大変お世話になりました。生徒が自発的に考えて動くように指導してくださる先生でした。吹奏楽コンクールの課題曲、自由曲についても、候補を出してくださり選曲は生徒での話合いで決めさせてくださいました。また、近くでプロのクラッシック奏者の演奏会や、講習会などがあると進んで連れていってくださいました。(中学3年生につれていってくださった、渡辺克也さんのオーボエのリサイタルは忘れられません)そうやって吹奏楽部に取り組んでいく中で、ある時、DVDを見せてもらいました。2001年の全日本吹奏楽コンクールの常総学院が演奏したリヒャルト・シュトラウス作曲の楽劇「サロメ」でした。私はその演奏を聴いて、茨城県にこんな演奏をする学校があることに、びっくりして、常総学院に進学したいと思うようになりました。そして、この頃には将来何かしら音楽に関わる仕事につきたいと思うようになりました。父には常総学院への進学は「音楽は高校まで、卒業したら大学を出て家業を手伝う」という条件の元で許してもらいました。

常総学院への進学

無事、常総学院へ進学することができ、吹奏楽部に入部することができました。恩師の本図先生はとても誠実で実直な先生でした。先生は音楽家でもありましたが、なにより教育者として素晴らしい先生です。1つのことに集中する尊さ。逃げずに真っ向から壁にぶつかっていく。だからこそ、人としての成長を音楽を通して伝えてくださっていたのだと思います。そうすると、自ずと一人一人が独立して考え行動していくようになっていく。本来の部活動としての役割もきちんと果たしていらっしゃいました。学年のカラーというのはその年でまったく違う中、30年と第一線で結果を出すというのは並大抵ではないことです。その歴史の中に関われたことを誇りに思っています。

 東海大学への進学

中学の時には「音楽に関わる仕事がしたい」と高校に進学しましたが、みんな周りは上手な人ばかり。

父との約束は音楽は高校まで・・・家業である養豚を手伝うためには経営的なことを学ばなくてはいけないと、神奈川県平塚市にある東海大学の情報理工学部の経営システム工学科に進学しました。そして、その頃は丁度、ネットショップが完全に浸透し始め、楽天市場やオイシックスなどが全盛でした。

そのため、父は珍しい豚を育てていたので、付加価値をつけて販売するためにはと、ネット通販の勉強をすることにしました。藤沢市のネットコンサルタントさんの所へ通いながら(本当にお世話になりました)9時から17時までは大学で授業を受け、17時~20時までは部活。家に戻って課題や食事を済ませて、23時~翌朝6時までコンビニの深夜のアルバイトをして資金をためて、18歳の後半にはネットショップをオープンしました。そして、中々売り上げが上がらず、全国のネットショップのオーナーさんにアポイントを取り、見学に行き様々なお話を聞きながら勉強したのでした。

ただ、販売を手伝ううちに、父との関係性が悪くなっていくのがよく分かりました。そしてある時でした。 そして、そんな中、仕事で高知県にある経営者さんを訪ねました。 その方は、わずか1.5キロの間口の狭い谷間でしか成育しない虎斑竹という、斑点がでる竹を加工し、竹細工などを制作し販売していらっしゃいました。 いろんなお話をお聞きする中、私自身の今までのお話をさせていただきました。すると、「あんたは親孝行だと思って家業を手伝っているようだけど、それ親孝行じゃない。親不孝だ。僕は小さい頃から竹に囲まれて育って、竹が好きだから、竹のよさを知ってもらうためにこの仕事をやっている。自然に身についているからアイデアが浮かんでくるのだと思います。」 「あなたが好きなことをやって、それで心豊かに生きる姿を見せるのが本当の親孝行じゃないか。それに今からでも遅くない。本当の年齢は実年齢ではない。心だよ」と言われてはっとさせられたのでした。 

そう私は、本当は音楽を続けたかったのです。実家が大変で、長男ということもありましたから、音楽やっていきたいとは言い出せずに居たのです。そこで、父には謝って音楽を専門的に勉強することにしました。

音楽大学へ編入するか転部するか。

これから音楽大学を受けなおすにしても、準備は元より両親の援助を受けて進学する訳にいきません。と思うと、私が進学した東海大学は総合大学で芸術学科で音楽学課程が存在しました。ピアノ、声楽等、音楽の専門科目は必修で、専門実技のレッスンもきちんとあり、転部の試験を受けると今まで情報理工学部でとった単位も振替ができることを知り、1年休学し、桐朋学園大卒のピアノの先生に楽典やソルフェージュを習いに通ったり、サックスのレッスンを受け準備しました。そして、たくさんの方に助けていただき、転部試験に合格することができました。 そこでたくさんの素晴らしい先生方と出会いました。特にサクソフォンの滝上典彦先生には、今でも大変お世話になっています。(先生の話はご本人が嫌がりそうなので割愛させていただきます) 転部した時は21歳。一年遅れている訳ですから、生半可なことをしていたら音楽に携わってはいられない。ただがむしゃらに練習していました。いま思うととても非効率で的をえていなかったですが、必要なことだったのかもしれません。

永源美恵子さんとの出会い

そして、大学在学中のある日、東海大学付属の八王子病院で滝上先生の本番があり、その際ピアニストとしていらしていたのが永源美恵子さんです。

 私は当日、曲目も分からない中、本番が始まる直前に、人生で初めて譜めくりをすることになり、「いったいどこで終わるのか」「反復記号が出てきた、どこまでが反復なのか」と軽くパニックになってしまい演奏を聴いている余裕はまったくなく、何を演奏されたのかも、残念ながらほぼ記憶にありません。

ただ、永源さんはとても面白いひとで「ピアノが必要になったらいつでも声かえてねー!」といって颯爽と帰って行かれました。 それから数か月がたち、クレストンのソナタの1楽章を演奏することになりました。いつもお願いしているピアニストには断られてしまい、滝上先生にどなたかご紹介していただけないか相談しました。その時、その場でお電話してくださった方はつながらず・・・ふと永源さんの「ピアノが必要になったらいつでも声かけてー!」を思い出しました。「永源さんはだめなのでしょうか?」と滝上先生に訪ねると「・・・・自分で電話してみて」と電話を貸してくださいました。 そうするとピアノを弾いてほしい旨をお伝えすると。

「方波見くんの人や考え方が分かってからじゃないと、お引き受けができませんから、よかったら楽器をもって一度家に遊びにいらっしゃい」と言われ、杉並にあるご自宅に伺うことになりました。 7月の気持ちよい晴天の日、杉並の地下鉄の駅前で待ち合わせすると、麦わら帽子を被り、電動自転車にのった永源さんがやってきました。「道を教えるのは最初だけだからよく覚えてね」と言われご自宅に到着しました。 ご自宅の前は植木鉢で様々なお花が埋めつくされたいます。そして、ご自宅はブドウのツルで覆われており、秋には甘いブドウが収穫できます。柿の木もあります。「どうぞ」とご自宅にお邪魔して、レッスン室に通されると、グランドピアノは蓋をしめられ布がかぶされており、蓋の上は楽譜の山。そして本棚も楽譜のやま。

びっくりしていると「どうぞ、暑いのでアイスを召し上がって」とアイスを出してきてくださいました。 そこでいろんな話をさせていただき、弾いていただくことになったのですが、楽譜を見せてと言われて渡すと、「私サックスは滝上さんとしか弾いたことがないから、曲はあまり知らないの」といって、初見でパラパラパラパラ、クレストンの1楽章のソナタを弾いていくではありませんか。

それがとても音楽的で感動するものの、なんかおかしいと思うと調律がめちゃくちゃに狂っているのです。弦が切れているところもあります。びっくりした顔をしていると、「調律がおかしいのはわかってるのよね~」といって、調律道具を持ち出し、調律(?)を始めました。が・・・調律を習った訳ではなく勘でされているようでした。 「いつも悪い環境で練習しないと、私たちはピアノを持っていけないでしょ。楽器のせいにはできないもの」「頭で音楽が鳴っていないとそのためよ」とおっしゃったのをよく覚えています。そして、おいてある楽譜を見るとすべて真っ白。書き込みがないのです。「音楽は瞬間的なもの。書いて覚えるなんて間に合わない。良い音楽的経験や音楽は覚えているものでしょう?覚えてないと」「私、3歳のときにはこれを弾いたの」「5歳の発表会はこれ」など記憶力が素晴らしいのです。(一番びっくりしたエピソードは当時の小学生のときの聴音のレッスンで、先生がお電話がなって席を外したとき、「どんな問題をやっているんだろう?」と表紙をみたら芸大の入試問題だった。ということに私は衝撃を覚えたのでした。) そして、永源さんのご自宅に通わせていただくようになり、現在も事あるごとにご一緒させていただき、音楽的な日々を過ごさせていただいています。

 永源美恵子さんのホームページはこちらhttp://eigen.chu.jp/

東海大学卒業から淡路島へ

そして、あっという間に大学の4年間は終わり、卒業時には音楽学課程を代表して、読売新聞社主催の読売新人演奏会、日本サクソフォン協会主催の新人演奏会に出演させていただきました。そして、その読売新人演奏会に一つのリーフレットが織り込みで入っており、聞き来てくださっていたフルート奏者の方の勧めで、兵庫県淡路島での地域活性化事業の音楽部門に参加することになりました。そこでヴァイオリンの森悠子先生との出会いがありました。http://www.musiccem.org/ 先生は弦楽の指導でいらっしゃっていましたが、管楽器奏者についてもご指導してくださっていました。ただ私はこの事業の後半に参加し、その事業で見ていただいたのはオーケストラスタディを一回だけ見てくださいました。そこで一言「あなたの演奏には和声感が感じられない」東京に戻った私は、その一言が頭から離れず、京都で開催される森先生のキャパシティビルディングや子供のためのプロペラプロジェクトに聴講し夜行バスで通いだしたのです。 続く。(2019.3.15)